判断せずに物事を見る

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人は何かすると、必ず良いか悪いかで判断し、評価する。
幼少期から染み付いた判断癖である。
この判断癖から自分を解放することが、とても重要な鍵となる。


判断することを、一旦やめ、あるがままの事実を観察できた時、
人はライオンのような野生的なスーパープレイが生まれる。

テニスコートの現実を思い起こしてみよう。。。

俗にいう【良いショット】を打った時、『良いぞ!』と判断し、人は満面の笑みを浮かべる。
逆に、【悪いショット】を打った時、『だ、だめだ!』と判断し、人はしかめ面を浮かべる。


ここで大切なのは、テニスプレーヤーが口にした『良い、悪い』はショットそのものではなく、
自分がどう感じたかのコメントだということだ。
感情を付け加えた評価のラベルが、『良い、悪い』なのである。
そう、ショット自体ではない。


都合が良ければ、良いと判断し、逆の場合は悪いと決めつける。
エースになれば、良いと判断し、ネットにかかれば悪いと判断する。


このように判断とは、自分自身の体験を通して見たもの、聴いたもの、感じたもの、
考えたものに対する、個人的なエゴ(自我)のただの反応に過ぎない。


社会にでると、その個人的なエゴを他者に強要するシーンを度々見るが、
もりたつは胸が苦しくなるのであーる。
もし、あなたの上司や会社がそのような環境なら、転職をお勧めする。


さあ、この判断がテニスにどう影響するのだろうか。。。

この判断という内側の行動は、セルフ1の活動を活発化させる。
もし、『今のは悪いショットだった』と判断すれば、
『なにがいけなかったのか』と考える。
そして、自分自身に対して、改善のコーチを始める。
日々改善、日々鍛錬。

一般的には、とても良い響きだが、もりたつテニス向上委員会では断じて反対である。

心は激しい活動を行い、肉体は力み、ギクシャクした動作を起こすからである。

努力は大切だが、頑張ることはただ自分自身を苦しめる結果になる。

では、『良いぞ』と判断をくだした場合はどうだろうか。
同じようにセルフ1は活動を活発化するのである。

今のはどういう打ち方であんな良いショットができたんだろう。。。
もう一度今のショットを打つにはどうしたらいいのだろう。。。

同じ結果を求めるように、自分自身に対して激しいコーチングを開始する。
必死さのあまり、そこでも力みが生まれる。


良いも悪いも自分自身を裁判し、評価し、繰り返される。
思考活動が活発化し、自意識がどんどん強くなる。
動作のギクシャク感はより強くなり、悪循環が進んでいく。

、、、。

さあ!みなさんの異議を聞く時間の始まりだ!

『判断や評価しなかったら、上達しないはずだ!!』
『ミスショットを無視して、ただ無心にプレーしろというのは納得できんぞ森!』

まだまだ聞こえてきそうだがこの辺りで勘弁していただこう。。。

はっきりさせておきたいことがある。
判断することをやめるということは、エラーを無視することではない。
起きたことを、ありのままに見る。
そして、それにプラスやマイナスの付加価値をつけない、ということだ。
事実は無視してはいけない。

判断は、肉体の緊張を生み、緊張は、動作を妨害する。
たとえエラーが多い日でもリラックスした状態であるがままを受け入れられるのなら、
スムーズなテニスが生まれてくる。

子どもの心を取り戻すことができたら、人は驚異的な上達ができる。

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